戦後70周年企画
Peace 9 challenge
串良一千粁 時空を越えて・・・
70年の時を超えて目指すは鹿児島県串良、1000kmのノンストップナイトラン
串良まで本当にノンストップで走れるのか?
僕が最初にこの計画を考えたのは2年前、K4-GP富士1000kmの単独走破を前に自宅から鹿児島まで走れば約1000kmであることからトレーニングに走ってみようと考えたのが始まりでした。
結局諸事情によりその時は未挑戦に終わりましたが、ずっとやってみたいという気持は忘れずにありました。
何故かというと、鹿児島には僕の叔父が太平洋戦争で沖縄へ向け飛び立った飛行場跡があるからです。
それは串良という町にあり、太平洋戦争末期の沖縄戦で多数の特攻機が発進していった基地でした。
特攻基地として鹿屋や知覧はご存知の方も多いと思いますが、串良は次いで多くの特攻戦死者を出した基地でもあります。
特に発進機の3倍近くの戦死者数を出しているのがこの基地の特徴で、それは旧式の雷撃機や練習機が特攻に使われたことにあります。
前置きが長くなってもいけませんので、このお話はまた串良までの途中にでも少しづつさせていたきたいと思います。
串良行きの決行日を522日の2200と決めたのは、叔父が串良を発進したのが524日の夜の10時で、70年前の523日ならば面会することが可能だったと思われるからです。
決行日は金曜日で、仕事を終えると同時に急いで用意をし、やっと夕食を取ったのが午後九時過ぎでした。
串良までのおおよその距離は965km、夕食は不安な気持に喝を入れるためトンカツを喰い成功を誓いました。
いよいよ出発の時刻となったのですが、忘れ物が無いかのチェックやナビのセットをやっている間に十時を回ってしまい、正確な出発時間は1015分とします。
出発地点から一番近いICである大和まほろばスマートICから西名阪道に入り、近畿道を経由して中国道に入ります。
今回の相棒となるコペンSは、ほとんどノーマルですがSの名を冠した通り足回り等がスペシャル仕様なので高速走行でも不安はありません。
下関までは山陽道ルートの方がやや距離が近く少し早く到着するのですが、今回は限りなく1000kmに近い距離になる中国道を法定速度ギリギリをキープしながら一路関門海峡を目指します。



なぜこんなバカなことをするのかとお思いの方がほとんどだと思いますが、今年は戦後70年、叔父はその終戦を待つことなくその82日前に沖縄の空に散りました。
この70年の区切りの年に本当はちゃんとお祀りすべきなのですが諸事情でそれもままならず、せめてきっと面会に行きたかったであろうお祖父さんやお祖母さんの代わりに叔父さんに会いに行こうと決心したのが今回のロングランなのです。
折しも安保関連法案の行方も心配な中で、このチャレンジが平和の願いに少しでも繋がればと思いました。
夜の万博公園を横目に吹田JCから中国道に入ればあとは一直線、西宮名塩SA・神戸JCを過ぎるといよいよ道路も暗い山中ルートに入ります。
この辺りはセントラルサーキットや岡山国際などへよく来ていたので知ったルート、西脇・美作と何事もなく通過して無事岡山県へと入りました。
夕刻に少しだけ時間を作って眠ることができたおかげか、それとも高ぶった気持ちのせいなのか、午前0時を過ぎても眠気はまったく感じません。
でもまだまだ目指す串良は遥か彼方だと思うと少し気が滅入ってしまいますが、走ることが大好きで普通の耐久レースじゃいつも走り足りないと感じてしまうボクですから、今夜は思いっきり走らせていただきましょう!
ガソリンは2~3日前にとりあえず満タンにしていたのですが、そこそこのハイペースに燃費が予想より悪く、広島に入る少し手前の七塚原SA1回目の給油。
時計を見ると午前1時過ぎ、ここまで約3時間とペースは悪くないのですが、目的地までの距離を考えるとまだまだ全然走れて無いような気がして心が萎えそうになります。
当然給油のみでそのまま本線に戻ったのですが、ここで少し尿意が・・・
しまった、出発前にトイレに行っておくのを忘れた~!
給油でのストップ以外は止まらないこと、そして車外には一歩も出ないことがノンストップチャレンジのルールなので、もう我慢するしかしょうがないです。
ただ僕は膀胱の容量が他の人よりかなりデカイようで、ガキの頃にオモシロがってトイレを目一杯我慢して測ったところ一升瓶1本半ぐらい出たのです。
だから2L以上の容量はあるはずなので、我慢すればたぶん大丈夫でしょう!?
太平洋戦争当時に南方戦線の搭乗員はラバウルからガダルカナルまで約1000kmの距離を飛び、作戦行動を行った後に帰還するまで合計78時間トイレに行けなかったと聞きます。
膀胱がデカイということは、唯一僕が戦闘機乗りの血をひいている証なのかもしれません。
中国道もこの辺りからは単調なドライブとなるので、いろいろ叔父さんのことを考えてみようと思ったのですが夜間走行の緊張からかアタマの中には何も浮かんで来ません。
コペンにはCDデッキも付いているのですが、一応真面目なチャレンジをやっているので無音でひた走ります。
西から低気圧が近づいているようで、雲が出ているのか周りは漆黒の闇でライトの照らす狭い視界だけに集中しているとコーナーのRを読み違えそうになったり、唐突なアンジュレーションについていけなくてドキッとすることも・・・
夜間雷撃でレーダーに探知されないよう海面スレスレに沖縄近海の敵機動部隊を目指した搭乗員の気持が少しわかるような気がしました。
そうこうしているうちに広島を通過したようなのですが、市街からかなり離れた山間を走っているせいであまりその意識が湧いてきません。
時々唐突にジャンクションが現れ、大きく回り込むコーナーにかなり際どいコーナリングを強いられたり、工事で車線が減少したかと思うとそのまま急に結構タイトなコーナーへの進入になったりと、気を抜く暇もなく中国道は長く真っ直ぐできっと退屈だろうと思っていたのは良い意味で外れました。
計画時の目標が串良まで10時間以内で走りたいと思っていたので、距離的な換算で行くと関門海峡へはなんとか4時ぐらいには到達したい。
しかしこの暗闇の中ではインターの看板とたまに出てくるどこまで何キロの看板しか頼るものがないので、土地勘の無い僕には地名がピンとこないので自分が現在どの辺りを走っているのか全く把握できないのです。
ただ山中のほとんど単独走行に比べると車の量が明らかに多くなってきた気がします。
車線が34車線と徐々に増え、これは間違いなく関門海峡大橋は近いと無意識に悟ります。
叔父さんの時代には関門トンネルはも完成していたらしいのですが、この高速道路や自動車の性能をきっと想像すら出来なかったことでしょう。
僕は本当に良い時代に生まれてきて良かったと思いますが、それは叔父さんたちが築いてくれた平和の上に成り立ったものだということを忘れてはならないと心から思います。



ふと我にかえり時計を見ると、ルミナイトの針が3時を指していました。
車線が増えてから結構な時間を走っているのですが、なかなか関門橋が現れてこない。
壇ノ浦の標識に、そういえば平家滅亡の地であることに気付きます。
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で有名な巌流島も、確かこの近くのはずです。
今か今かと待ち侘びた挙句に、突如大きな橋桁が現れ周りを見渡すも漆黒の闇が災いして何も見えず、関門海峡大橋はあっという間に通り過ぎてしまいました。
その間は約30秒ぐらいか、あまりの呆気なさに驚くも明石海峡大橋のようなイメージを勝手に持っていた自分が間違っていたことに気付いて可笑しくなってしまいました。
地図だけでは想像できなかった地理というか、この歳になって関門海峡の狭さを初めて知った次第です。
とりあえず無事に九州の地を踏めたことに感謝しながら、都会の不陰気がする九州道を気もそぞろにひた走ります。
北九州が非常に大きな街であることは想像するも無いことですが、今宵は何故か闇が深くビルの陰すら全く見えません。
もともと人や車の多いところは苦手なので出来ることなら一刻も早く抜け出したいのですが、北九州市そして福岡県は意外に大きいようでなかなか脱出できません。
そうこうしているうちに燃料計の残量が乏しくなっているのに気付きました。
できればいつも使っているメーカーのガソリンを入れたいところですが、ここまで来てガス欠リタイアはごめん蒙りたいので、次のSAで迷わず給油に入ろうと決めたところに見えて来たのは広川SA
給油中に時計を確認すると、午前4時を少し回ったところでした。
給油が完了しサインを終えると、店員がえらく丁寧に礼をして道中の無事を祈ってくれた。
たぶんナンバーを見て遠路をねぎらってくれたのだろう、何となく心地よい気分になった。
ここで叔父のことについて、少しお話ししておきましょう。
海軍予科練13期生として太平洋戦争に参加した叔父ですが・・・
実は叔父の死には幾つかの謎があります。
叔父の墓標には、次のように書かれています。

昭和十八年九月三十日海軍飛行予備学生トシテ土浦海軍航空隊ニ入隊
二十年四月十五日攻撃第二五一飛行隊附ヲ命ゼラレ同年五月二十四日
菊水七号作戦ニヨリ鹿児島県串良基地ヨリ沖縄周辺敵艦船攻撃ニ発進
翌梯暁沖縄本島読谷村敵飛行基地ヲ急襲着陸抜刀斬込ミタルモ遂ニ戦
死ス

単光旭日章ヲ授ケラレ謹啓勲章ヲ賜ウ

寺岡謹平書

僕はこの内容が正しいのかどうかを厚生労働省と防衛省に確かめたことがあります。
何故なら同日同飛行場に陸軍の義烈空挺隊が突入しており、この作戦の詳細は克明に記録が残っているからです。
海軍航空隊が同飛行場奪還の第二波攻撃を受け持ったとの推測も成り立ちますが、調査を依頼した各省とも義号作戦に呼応した海軍の作戦記録は存在しませんとの返回答でした。
義烈空挺隊の突入は大きく報道されたせいかこの作戦が最優視されがちですが、後に調べた資料では陸軍航空部隊の第8次攻撃と海軍の菊水7号攻撃に組み入れて実施し・・・となっていますので、どちらかというと義号作戦が陸海軍の航空作戦に呼応した攻撃であったようです。
また飛行場襲撃後は特定地点にに集結し遊撃戦に転じるとありますので、特攻作戦では無いということになります。
この攻撃での戦死者数は数字的には合っているように見えますが、陸軍第6航空軍の発信した戦闘概報によると、「義号作戦ニ参加シ北中飛行場二強硬着陸ス任務後敵中突破具志頭付近二到達セル1名」が戦果報告したとありますが、それが事実であれば計算が合わなくなります。
北飛行場は滑走路が2本あり、仮に義烈空挺隊の1機が胴体着陸でその1本を封鎖したとしても、九七式重爆より小型軽量の天山であれば800kg爆弾を投下後ならば空いた滑走路への着陸も可能だったと思われます。
そのあたりの話はまたの機会として、各省で得た資料では叔父の名は海軍少尉として確かに存在し、昭和2041日付で串良基地に配属になっているという事と、叔父は攻撃第256飛行隊の所属で422日の夜間雷撃には251飛行隊附で出撃し索敵線上に敵を見ずと記録があり、無事帰還したようでした。
しかし攻撃第256飛行隊の戦時日誌は5月だけ欠落しており、52425日の戦闘詳報も消滅していて同日の叔父の行動は全く掴めないのです。
そして翌月の6月以降、第256飛行隊の編成からは所属が確認出来なくなります。
24~25日の出撃で未帰還となっていますので、当然といえば当然ですが・・・
また時間経過のズレも大いに気になります。
義烈空挺隊は陸軍熊本健軍飛行場を12機の九七式重爆撃機で、5月24日18:50に出撃し、同日22:11頃、突入を知らせる無電「オクオクオクツイタツイタツイタ」を打電しています。
同日叔父が串良を発進したのは義烈空挺隊突入後の2330分以降と思われるので、到達時刻には3時間以上のズレがあります。
唯一の手懸りとなった同日同時刻に出撃されたされた方の手記によると、発進した天山10機は5機の編隊で種子島の東回りと西回りに分かれて沖縄を目指したようで、手記の方は東回りで沖縄南海上の機動部隊を攻撃したようです。
一方叔父が飛んだと思われる種子島西回りは、読谷村北飛行場に突入するならばこれであろうと思われるルートです。
そしてその方の手記の中には午前2時過ぎに沖縄本島北・中飛行場付近が激しい火線に覆われているのを確認されています。
また出撃した10機の天山のうち3機はエンジン不調で引き返し、残り7機のうち叔父を含む3機が未帰還になっていますが、西回りか東回りかどちらのどの機かは不明です。
その方のお話の中では、敗色が濃くなった戦況のせいか串良の各隊もかなり混乱状態にあったようで、出撃時も勝手に黒板に名前を書いて飛ぶような有様だったようです。
また上記の墓碑に書かれた書を認めた吉岡謹平という元中将は、特攻生みの親と言われる大西瀧治郎中将と共に特攻作戦に深く関与したとされる人物であり、戦後不可解な行動をとっていた事が最近になって解ってきました。



叔父の死の謎はまた後ほど詳しくお話しするとして、ノンストップランに話を戻しましょう。
広川SAで最後の給油を済ませ急ぎ本線に戻り更に南下を始めると、少しづつ空が白み始めてきました。
5時ぐらいに熊本に入れば10時間以内に串良に着けるかも知れない!
完走が目的とはいえ、1000km10時間以内に走破することは更に大きな自信に繋がるはずです。
そんなことを考えていた時、後方から徐々に近づいてくる車を発見します。
ロードスターとMR-Sのランデブーで、ペースが良いのでしばらく引っ張ってもらうことにします。
暗くて車内までは確認出来ませんが、車の弄り方から若者であることは間違いなさそうで博多あたりで浮名を流してきた帰りでしょうか?
おかげで熊本ICまであっという間に走れてしまいました。
彼らと別れてしばらく走ると、九州道は今までの平坦な見渡しの良い平野から一転山中に入いっていきます。
外はもう完全に世が明けてしまいましたが、前日の予報通り雨が近いのを知らせるごとく空には曇天が広がっています。
このアンニュイモードが災いしてか、ここに来て一気に睡魔が襲ってきました。
窓を少し開けると、湿気のある生温かい風が入ってきました。
強烈な睡魔は治まらず、何か作を講じないとこのままでは完走もままならない状況です。
タンブラーに入れてきたコーヒーはすでに飲み干しているので、助手席のクーラーBOXからペットボトルの冷たいコーヒーを取り出して飲むも、眠気は一向に治まらないうえに暫く忘れていた尿気がまた擡げてきたではないか。
何か他の手は無いかと考えていると、出発の間際にわざわざご飯を炊いて握った塩むすびがあることを思い出し早々に口にすることに・・・
満腹感からもしや更に眠くなる恐れもあったのですが、長時間の連続走行で空腹感も出てきてきたところだったので立て続けに二個貪るように喰うと嘘のように眠気が吹き飛んだ。
若い頃から夜更かしの時はといえば夜食に塩むすびが通例の僕だったので、それを体が覚えていたのかも?
とりあえず目の前の危機は脱したようです。
山中の高速は更に深くなり高架橋とトンネルの連続が暫く続き少しなだらかになりはじめた頃、鹿児島県の標識が目に飛び込んできました。
奈良を出発して8府県を通過しながら走り続け、遂に来たかという感慨がこみ上げてきます。
時計で時間を確認すると、針はもうすぐ6時を指そうとしていました。
といっても串良まではまだまだ少なからずの距離がありますので、安心するのは早計すぎ。
九州道が山間から高原ぐらいの海抜まで降りて来た頃、左手に鹿児島空港が現れ遥か前方には噴煙を上げる桜島が見えます。



ここからは九州道を外れ隼人道路を経由し東九州自動車道(鹿児島区間)へと進み曽於弥五郎ICを目指します。
この区間は対向2車線なので出来れば早い時間帯に抜けてしまいたいと思うも、農業の朝は早いようで軽トラックに行く手を何度か阻まれます。
初めて走る道なので距離感が掴めず時間の経過にヤキモキしながらも曽於弥五郎ICが見えててきました。
事前に調べた地図では曽於弥五郎が高速の終点で、ここで降りて下道で鹿屋市串良町を目指すと思っていましたが、ICが近づいて来てよく見るとまだ高速が続いています!
かなり焦り迷うも一か八か直進に掛けることに・・・
後で解ったことですが、東九州自動車道の鹿屋串良JCTから大隅縦貫道(鹿屋串良道路)と吾平道路がバイパスとして開通していたのです。
これで一気に串良に近づいたものの、下道に入ってから目的地との位置関係が以前不明です。
とりあえず先を急ぐことにしましたが、こういう時に限って道に迷うのが僕の常です。
結構な距離を走った後に、何と無く見覚えのある街中に入ったのですが、ここはフェリーで来た時に志布志から串良に入った所をどうも逆に向いているようです。
ということは、目的地の串良平和公園を行き過ぎたことに・・・
早速Uターンしてそこそこの距離を戻ると、串良平和公園(旧海軍航空隊串良基地跡)の道標を発見。
そのT字路を入って少し行くと平和の塔が見えてきました。
塔の前の広場に車を止め、時計を確認すると午前730分ちょうどです。
車から降りると少しふらつきましたが、すぐに正常に戻り一安心。
完走の達成感からか疲労は全く感じません。
叔父さん無事到着致しました、とご挨拶もソコソコに先ずはトイレに駆け込みました!
落ち着いたところで小高い丘の上にある平和の塔に登り、もう一度ちゃんとご挨拶し置きつけのノートに「70年の時を越えて、お見送りに参りました。」と書き込みました。



そう、70年前の今日、あなたは間違いなくここで生きておられたんですね!
本当に会いに来たかったのは、お祖父さんお祖母さんだったに違いありません。
お祖父さんは僕がまだ物心ついたぐらいの時に結核で亡くなりました。
お祖母さんは、不時着して何処かで生きているかもしれないってずっと言っていました。
お祖母さんの話によると、桜の咲き終わった頃ふと実家に戻って来た叔父は普通に数日を過ごしたようです。
そして何も言わずに戻って行った後に、ほんの少しの髪の毛と切り揃えた爪が残されていたといいます。
この行動は自分の一部を現世に残したいという一念から、特攻に向かう者が必ず行ったと聞きます。
戦没者資料の死亡区分には特攻・戦死・殉職の3種あり、叔父は戦死となっているのに特攻隊員のような行動を取ったのはなぜなのか?
混沌とした戦況に自身の死期を悟ったのか、それとも特攻ではないが特攻に近い作戦を強要されたのか?
特攻に関していつも問題になるのは志願であったのか、それとも強要があったのではないかという疑問です。
僕は当時の軍隊組織の内容を考えると、たとえ志願であったとしてもそれは半強要、特に沖縄戦に関しては強要以外の何物でも無いと思っています。
大戦中に徴兵された人は、その時点から強要が始まっているのと同じ状態ですよね。
戦後間も無くのGHQ支配の時代に、特攻は強要ではなかったのかが大きな問題になったようで、その時先の特攻に深く加担したと目される人物、吉岡謹平が不可解な行動を取っていたことがわかっています。
終戦後に復員援助の組織にいた吉岡は、戦中の部下二名と一般人一人を使って特攻戦没者の遺族宅を回らせ、遺書や遺品を1000点以上も回収したといいます。
名目は特攻に関する本を出版したいということで、事実神風特別攻撃隊という本が出版されていてその中に数通の遺書の文面が記載されていました。
そしてその集められた1000通以上の遺書は、遺族に返されることなく江田島の自衛隊資料室に保管されたままになっていたといます。
この本は僕の記憶が正しければ、戦没者慰霊祭塔で配られたか購入させれたように思います。
彼のこの一連の行動を考えるに、特攻は志願であったということを正当化したいという、裏を返せば強要では無かったことをアピールしたかったのではと思得ないでしょうか?
そして特攻隊員の遺族宅を回った近江一郎という一般人が我が実家にも立ち寄ったのでは、と僕は思っています。
あの墓石の文面をその時に渡されたのではないのか?
叔父の遺書や遺品が見当たらないのは、大江一郎に渡したからではないのか?
祖父母が他界した今となっては確かめる術は無く、これだけ長い時が経ってしまった今となってはすべてを想像の中で理解していく他ありません。
ただ階級によって命令という強要が発生する軍隊という組織は、戦争云々以前に何としても無くさなければいけなません。
そんなことを考えながら平和の塔を後にし、次の目的地である海上自衛隊鹿屋基地に隣接する戦争資料館に向かいました。
串良から鹿屋までは123kmあり車で20分あまり、閑静な住宅地を入った奥にあるのでちょっとびっくりしました。
正面に鹿屋ベースのゲート、右に二式大艇が見えるその左側に資料館があります。
立派な建物でかなりの展示スペースがあり、二階の一画に零戦52型が展示してあり、その周りには特攻に関する展示があって、沖縄戦で特攻隊に参加された隊員さんのお名前と遺書や遺品が展示されている。
例の者たちが回収したものの一部も、ここにあるのかも知れません。
ただ僕の叔父は特攻とはみなされていないので、先の平和の塔やこういう場には名前すら無く余計に虚しさが込み上げてきます。
外には零戦や紫電改のエンジンと共に天山の火星型エンジンが、ひしゃげたプロペラが付いた状態で展示されていました。



その横には天山が雷撃に使用した、当時世界最高性能と言われた酸素魚雷があります。
串良の平和公園にもあった攻撃第254飛行隊の慰霊碑がここにもあります。
この部隊も天山を主力とし、硫黄島特攻など多くの戦果を上げた雷撃隊では最も有名な部隊です。
ここでも何故か叔父の所属する256251飛行隊は、影に隠れたようにほとんど表に出ることはありません。
何故か少し悶々とした気持ちで資料館を後にします。
次に向かった先は、JAXA内之浦宇宙空間観測所。
以前から行きたいと思ってはいたのですが、なかなか機会が無く今回こそはぜひ立ち寄りたいと思っていました。
僕が最近数学や物理に興味を持っていることは友人の中では知るところです。
時間=空間
70年という時の長さから考えれば、僕が走って来た1000kmなど、その一瞬をも満たさないでしょう。
でも空間の次元が変われば、時間の流れも変化するはずです。
もし宇宙が見えないワームホールで繋がった輪のようになっているとしたら、僕らは何度も同じことを繰り返しているのかも知れません。
創造主は人類が早く新しい次元を発見することを望んでいるのでしょうか?
それともあまり知らない方がよいような世界なのか?
膨大な宇宙から見ればわれわれ人間など素粒子以下、僕らが子供の頃はこの世界は3次元だと思っていましたから・・・
内之浦までは結構距離があり、鹿屋を出た頃からポツリポツリ降り出した雨はやがて本降りになってきました。
本来なら気の滅入る天候ですが、鹿児島の道路はどこもキレイで走っていてすごく楽しい。
道標を頼りにどんどん進むとやがて山中に大きなレーダーが目に入り、更に進むと観測所のゲートにたどり着く。
施設内は車で見学して回ることができるので雨でも大丈夫です。
許可をもらい中に入ると、岬の山肌に数基の大きなレーダーとロケット発射台が点在した広大な施設であることがわかります。
この頃になるとさらに雨は強まり、車外に出るとすぐに濡れ鼠になってしまうので、残念ながら車内からの見学に留まってしまいました。
頂上から順に施設を見学しながら降りてくると、日本の宇宙開発の父と言われる糸川英夫教授の銅像を見つけ、そういえばここは「はやぶさ」のふるさとだったんだと気づきました。
残念ですが今日はもう雨が上がることは無いでしょう、早々にゲートまで戻ってその側にある宇宙科学資料館に行くことにしました。
この資料館は一見小さな建物に見えますが地形を生かし縦に長く作られていて、入ったところから階下に降りていく見学路になっていて日本のロケット技術の全てを網羅していて中身も非常に濃い。
順番に見ながら中ほどの大きなモニターでこれまでの宇宙開発のドキュメンタリー的なものを見ているうちに、昨夜一睡もしていないのが響いたのか不覚にも知らぬ間に眠ってしまっていました。
気が付いてふと周りを見回すといつの間にか見学者が沢山いて、恥ずかしくなって急いで外へ飛び出し見学を諦めてゲートへ許可証を返却し車に戻りました。



どれぐらい眠っていたのだろう、時計で確認するとすでに二時半を回っています。
帰りは志布志からフェリーで戻る予定なので、そろそろ戻らねばいけない時間です。
帰る前にもう一度平和の塔に立ち寄り、叔父さんにお別れを告げてから鹿児島を後にしたい。
来た道を戻ったつもりがどこで道を間違えたのか、ずっと海岸線を走るルートを走っていました。
崖下に海が見えるので晴れていればきっと美しい景色に違い無い、そんなことを思いながら豪雨となったワインディングを駆け抜けます。
相棒コペンはすこぶる調子がよく、悪天候や岬のつづら折れにも臆することなくかなりのハイペースを維持し続けることができました。
今回の串良チャレンジも、いよいよ佳境に入ってきたようです。
’2013の富士1000kmを一人で走り切ってからすでに二年近く経ち、もう体力的に無理かもという不安が、今回の達成で一掃することができました。
これも叔父さんの七十回忌があったからこそと感謝の念でいっぱいであると同時に、自分のチャレンジは何のためなのかを再確認する旅でもありました。
入り組んだ海岸線の道路をやっと抜け、民家がふえだして串良に近ずくと、雨足も少し優しくなり出しました。
この街にはもっと長く滞在して叔父の痕跡を、調べたいことは山ほどあるのですが・・・
町並みを過ぎてもう間違うことの無い交差点を右に、そして道標を左に入ればやがて平和公園が見えてきました。
平和の塔の前へ車を止め、暫し七十年前に思いを馳せます。
僕は良い時代に生まれ、そして幸せな日々を過ごさせて頂いています。
もう悲惨な戦争が二度と起こらないように、僕らは平和を守る義務があります。
日本は今再び世界に向け平和を宣言しなければいけない時期が来たのだと思います。
資源・領土・思想・宗教・・・戦争の理由は様々あれど、その全てが人の愚かさが齎すもの。
人はみな絶えず何らかのマインドコントロールに晒されているのです。
大多数の潔い者を惑わすのは一部の汚れた者たち、されどその責任はやはり僕ら一人一人にあるのではないでしょうか。
本当の戦いは自分の心に中にあるのかも知れません。
叔父さん、あなたは70年前の今日ここで何を考えていたのでしょうか?
DNAが繋がっているならば、あなたもきっと同じような事を考えていたのかも知れないですね。
また会いに、必ず来ますから、待っていてください。
そんな思いに後ろ髪を惹かれながら、平和公園を後にしました。
串良の街中を抜ける時、ここに隊員の多くが必ず訪れたという写真館が今は旅館に変わって営業されているらしく、当時撮影した写真が今も残されていると聞きました。
叔父の写真が実家に何枚か保管されていますが、そこで撮影されたものなのか次回はぜひ伺って色々お聞きしたい。
串良から志布志までは道も良くさほど時間もかからず到着するも、志布志の街は以前より賑わいを増していてフェリーターミナルに向う交差点をまたもや行き過ごしてしまいます。
多少のハプニングはあったもののなんとか無事に到着し、前持って予約しておいた乗船券を受け取ることができました。



出港にはまだ暫く時間があったので、土産物などを探しながら乗船待ちの時間を潰します。
さつま揚げは以前来た時に山川の港で食べた揚げたてのが美味しくて忘れられません。
鹿児島は酒もうまいし美味しいものずくめのホントに良いところなので、次はもっとゆっくりと来たいと思います。
程なく乗船が始まり僕は愛車コペンと共に船上へ、もう暫くすると鹿児島ともお別れです。
叔父の串良での行動は結局多くの謎を秘めたままに終わりましたが、昭和20年5月の戦闘詳報だけが消えてしまっているは不可解極まりなく、たとえ空襲で焼失したとしても一月全て失われるのはおかしい。
戦闘詳報は非常に重要な文書でありそう簡単に無くなったでは済まないはずで、ある時期に何者かが意識的に持ち出したような気がしてなりません。
また「上官を射殺して、飄々と出撃して行った者がいた」という話は事実なのでしょうか?
特攻に深く関わった司令官による、特別に認めたとも取れる叔父の墓標の文面は、特攻隊員の遺族を訪問して遺書や遺品を回収していた者が持参したのでしょうか?
たった10時間ほどの滞在ではありましたが、叔父の没後70年の節目にここへ呼び寄せられた事はこれからの僕の人生にとって大きな意味があったような気がします。
そんなことを考えているうちに、僕は深い眠りに就ていました。
どれくらい経ったのか、ふと気が付いて時計を見ると、もうすでに朝の6時を回っていて船は紀伊水道から淡路島が見える大阪湾へと入っていました。
船を降りれば大阪南港から自宅まではもう1時間もかからずに着くでしょう。
朝の海をみながら、串良までの1000kmを一気に走り抜けた達成感と、叔父さんの70回忌を曲がりなりにも務められた安堵感を噛み締めていました。
七十年前の悪夢のような時代と、あまりにも違いすぎる今を、叔父さんたちが見たらどう思うんでしょう。
叔父さん、世界が永久に平和でありますよう、しっかり空から監視していて下さい!



日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

戦争こそ人間がどれほど野蛮かの証明で有り、同じことを幾度繰り返しても未だにわからないという愚かさ。
野蛮な古い脳を理性を司る新しい脳がコントロール出来ていない部分である。
長い歴史を思えばつい最近まで世界中で互いに殺しあっていたのだから、脳の発達が遅れていると思うのも仕方が無いのかも知れない。
民主主義も社会主義も共産主義も、話し合って決めるという基本点は共通のはず。
しかし今は何故かその全てが一部の権力者によって決められてしまっているようにみえるのは何故ですか?
政治家を先生と呼んでいる輩などは、もう救いようの無い状態に至っているのかもしれません。
本来は死者に花を手向ける気持ちが始まりの宗教も然り、大半が現代にそぐわなくなって来ている現状において、まだ尚旧態依然に囚われるのは何故なのか?
宗教は思想よりもマインドコントロール性が高いのでより厄介かも知れない。
というか、宗教に金が絡んでいること自体胡散臭い。
なぜこのような矛盾を正すような宗教家が出てこないのか不思議でならない。
いよいよ僕達は、真の勇気を持って、間違った世界を本気で正さなければならない時が来たようです。