Forget me not (May 24, 1945)

勿忘草(1945年5月24日)

5月24日木曜日晴れ
ついに出撃の日が来た。
もう二度と生きては戻れ無いだろうと覚悟を決めた。
午後3時10分より午後3時45分までの間、グラマン約80機が串良基地に来襲した。
敵機動部隊が近海にいるとの情報が入った。
また味方偵察機の空中写真を見たが、沖縄本島南部の周辺に敵の艦船が数えきれないほどいる。
他の出撃隊員達は「目標が幾つもあるぞー!」と勇躍している。
確かに攻撃目標はありすぎるほどだ。
今晩同じように出撃する雷撃隊員が来て
「みんな聞け。敵の機動部隊が近海にいるぞ。今夜は誰も帰れんと思え・・・」
と、大声でどなった。
我々の小隊は数日前に前もって別の攻撃目標を指示されていた。
午後10時過ぎ、我々は主力雷撃隊より一足早く飛行隊指揮所内に整列し指令の訓示を待った。
司令から、
「沖縄からの友軍の無線連絡によれば、海軍航空隊の戦果を特に期待している。
戦果いかんによっては、地上部隊の作戦も有利に展開できる。
飛行中にエンジンが不調になれば、いつでも帰ってこい。
しかし、戦場に到着し攻撃進路に入った場合は、相当の対空砲火も受けると思うが、
命を惜しむことなく一発必中で任務をを敢行せよ。」
と命令された。
陸軍の義烈空挺隊が北飛行場に突入したとの報が入った。
指揮所内の黒板に種子島の西回りと東回りのコースが書かれていた。
さらに沖縄上空の天候のことや、明朝串良基地がもし敵機の攻撃を受けて着陸不能になった場合に
着陸すべき二、三の飛行場も指定された。
また喜界島飛行場も、現在使用可能との報告もあった。
僚機と自己符号の確認をする。、
各機の無線の自己符号はイロ壱・弐というように区別されていて、地上はセス○のように呼出符号が決められていた。
我々の隊6名は指令の前に整列し冷酒を飲んだあと、航空弁当・サイダー・居眠り防止食・パイ缶が配られた。
そして敵の電探を妨害するための欺瞞紙が各機に10束ずつ配給される。
私は居眠り防止食とサイダーだけを携帯し、それ以外は見送りに来てくれた残留搭乗員たちに渡してトラックに向かった。
爆撃を受けても爆風で飛行機が破壊されないようコの字型に堤防のように囲まれた掩体壕まではトラックで輸送される。
私は出撃する時は軍服と下着は必ず新しいものを身に着けるようにしている。
身の回りの物は、もし私が戦死したら故郷にに送ってくれるように残留搭乗員に頼んだ。
輪廻転生、もしもう一度生まれ変われるなら平和な時代にしてほしい・・・
あれこれ考えてみるが、今更どうすることもできない。
仲間のの隊員たちは何を考えているのだろう。
トラックは間もなく掩体壕に到着した。
私の搭乗機は雷撃機の天山一二甲型(B6N2)。
機はすでに整備員が試運転中で、整備の下士官が操縦席に乗っていた。
下士官が手を挙げ異常なしの合図を出した。
操縦の籠原二飛曹に続いて私が乗り込み、続いて電信の足立二飛曹が搭乗する。
僚機は操縦が越智上飛曹、偵察・西谷上飛曹、電信・後藤二飛曹で、2機で沖縄をめざし今から発進するのである。
我々2機は米上陸軍を直接攻撃するため爆装されている。
機が少しでも軽くなるように機器のチリを払い飛行服のポケットのゴミも機外に捨てる。
後席から「出発準備よろしい。無線連絡は良好です」と報告がきた。
我々は作戦上攻撃時間が決まっている為真っ先に飛び立たなければならない。
「籠原二飛曹、出発する!」
整備員がチョーク(車輪止め)を外すと真っ先に発進した。
数人の整備員が手を挙げ帽を振って見送ってくれている。
離陸地点に到着すると足立二飛曹が「離陸伺い信号を出します!」と言って指揮所に発光信号を送った。
間もなく”離陸せよ”の発光信号が返ってきた。
機はエンジン音を高めゆっくりと滑走を開始した。
指揮所前を通過する時、残留搭乗員や特攻隊員の軍艦旗を振る姿が目に入る。
機を一路、種子島の方向に向け沖縄へと南下する。
味方戦闘機の護衛などはない。
機体は重い爆弾を抱いての飛行なので、敵機に発見されたら一撃のもとに撃墜されるだろう。
満月に近い月が出て翼が青白く鈍い光を放っている。
いつグラマン夜戦が直接照準で射撃してこないかと不安でいっぱいになる。
緊張しながら上空を見ていると、突然黄色い光がスッと流れる。
一瞬グラマンかとゾクっとするが、それは流れ星だった。
しばらくすると左に小さな島が見えてきた。
喜界島である。
沖縄に近づくにつれだんだん曇ってきた。
曇っていれば雲下では翼が光らず敵に発見されずらいので少しは気休めになる。
だが実際には強力な電探で索敵されているので、雲など問題にはなっていないだろう。
午前1時過ぎ、沖縄本島の北端が微かに見えてきた。
とうとう来たかと思うと体が小刻みに震えてきた。
私が串良基地の第251飛行隊に配属になったのは4月15日、米軍が沖縄に上陸した2週間後である。
以降数度出撃するも、天候不良や発動機や計器の不調で引き返したり・・・
戦果なしの帰還が続くといろいろと言う奴が出てくる。
まさに針のむしろとはこの事かと思った。
その重圧は死ぬ事より辛く我々にのしかかっていた。
戦果無しに何度も戻ると次の出撃には厳しい任務を回されるようになる。
この度の特別任務はそういうことなのだろう。
雷撃隊員は無駄死にしないことを誇りとするはずが、今となっては何を言わんやである。
私の小隊はこの2機、6名である。
皆もよく理解してくれ二十歳を過ぎたばかりの私にここまで付いて来てくれたことに感謝している。
残波岬が見えてきた。
もう間もなく北飛行場である。
沖縄上陸作戦開始直後に占領された沖縄本島北飛行場は、すでに米軍により大幅に拡張されていた。
ここから米軍の爆撃機が飛び立つようになったら西日本は壊滅する。
いや、この飛行場などには関係なく日本は間もなく負けるだろう。
せめて故郷の父母兄弟、戦争に関わりのない一般の国民は助けてほしい。
我々が全滅するまで戦い、その命をもって米国に慈悲を請うしか残された道はもうない。
電信員が「突撃電報を打ちます!」と言い電鍵を叩いた。
私は電探を妨害するため、欺瞞紙をあるだけ蒔いた。
陸軍の義烈空挺隊の突入作戦が功を奏したのか敵の対空砲火は全くない。
残波岬手前から海面すれすれに矢のように飛びそのまままっすぐ爆撃進路に入った。
通信員は下方旋回機銃を撃ちはじめる。
全速、息詰まる一瞬!
「ヨーイ!」
「テー!」
投下レバーを引いた瞬間機体がふわりと浮くのがわかった。
旋回しながら急速上昇し戦果を確認。
弾薬庫を狙ったはずだが誘爆している様子がない。
占領後場所を変更したのか・・・
僚機は偵察機の空中写真にあった野積みのドラム缶に上手く命中させ給油所が火の海と化している。
「奴ら、やったな!」
と喜んだ瞬間、僚機が火を噴いた。
始まった対空砲火にやられたようである。
しばらく火の帯が見えたいたがやがて闇に消えた。
海に不時着してくれていればまだ助かる見込みはある。
そう祈るばかりだ。
対空砲火を交わしながら海へ出た瞬間、突然後方から閃光弾が雨あられのよのように降ってきた。
すでに敵の大型電探に捕まっていたのか、グラマン夜戦が5~6機束になって襲って来た。
1発も被弾しなかったのが不思議なくらいだ。
通信員が13mm上方旋回機銃で必死に応戦するが、もう逃げるのは不可能だ。
操縦員に「さあ行くぞ!」と声をかける。
「待ってました!」
後方からも
「思い切り派手に逝きましょう!」
と通信員の声が聞こえた。
出撃前に皆と相談してもう帰れないと判断した時の行動を決めていた、遂にそれを実行する時が来たのだ。
急速旋回で降下して海面すれすれに飛行してグラマンをかわす。
これでほんの少しの間グラマンの攻撃から逃れられる。
そしてもう一度北飛行場の侵入経路に入った。
今度は爆撃ではなく強硬着陸するのだ。
滑走路が破壊されている時はそのまま燃料庫か弾薬庫に突っ込む。
対空砲火も今回は派手に撃ってくるがこちらの高度が低く近すぎるので当たる気配はない。
幸い滑走路は無事のようだ。
北飛行場へは何度か降りたとはいえ照明無しの着陸は至難の業だ。
ましてや後方から機銃を撃ちながらの着陸である。
最後に最高の着陸をやってくれたた操縦員に
「ありがとう、靖国でまた会おう!」
と言って私は機体が停止するや否や飛び降り抜刀、指令所の建物めがけて全力で走り出した。
通信員も機体から外した7.92mm機銃を撃ちながら追って来る。
そして天山は・・・
走る私を追い越すように右奥の扉の開いた弾薬庫に滑走しながら突っ込んでいくのが見えた。
そして暫くすると目の前が真っ赤になった。
あとはもう
何も覚えていない・・・

義を持って死するとも、不義をもって生きる勿れ